届けたい「地元野菜」と「想い」
眞尾 秀夫さん
相原町
地産地消の善循環を広めるためには、地元の野菜を好きになってもらうことが大切です。普段何気なく手にする野菜一つ一つに込められた作り手の“想い”もまた、付加価値であるとJA町田市は考えます。眞尾さんの農業に向き合う想いから、地域の皆さんが一人でも多く、生産農家のファンになっていただければと思います。 (取材・記事 堺支店 広報委員 若林 剛)
JA町田市の共同直売所、アグリハウスさかいには、相原町の眞尾秀夫さんが作るおいしい野菜が毎日並びます。野菜部会堺支部の重鎮で、他の生産農家からも一目置かれる存在です。朝の野菜出荷時は、誰よりも早く来店し、荷を下ろす前に靴を履き替えて売り場の掃除をするなど、その仕事への姿勢と人柄は、生産者をはじめJA町田市の職員にも良い手本となっています。
栽培技術と人柄は野菜に表れる
「地元の野菜を求めて来店するお客さんの期待に応えたい」という強い信念のもと、台風や雪の日でも毎日必ず出荷します。眞尾さんの野菜は、目の肥えた常連客からも好評です。中でもゴボウは人気で、わざわざ他の地域から眞尾さんのゴボウを求めて来店するお客さんがいるほどです。
野菜だけでなく果樹の栽培技術にも定評があり、平成25年度町田市農業祭の農産物品評会では、キウイフルーツで優秀賞(全国共済農業協同組合連合会東京都本部本部長賞)を受賞。品評会表彰状授与式では、「良いキウイフルーツを作る秘訣は?」との質問に、「いやぁ。大したことは何もしてないんだけど」と前置きし、出てきた話は目からうろこのノウハウばかり。居合わせた生産者が聞き逃すまいと慌ててメモを取っていた一幕からも、眞尾さんの技術と人柄が伺えます。
今日を生きるための農業
眞尾さんが農業を始めたのは昭和13年。小学生(相原尋常高等小学校)の頃から先代の手伝いをしていました。当時、堺地区(町田市相原・小山町)では、養蚕業が盛んで、眞尾さんの家もその一軒でしたが、昭和18年に母親が他界したことをきっかけに、養蚕から野菜に経営を移行。昭和19年、中学生の頃には農業を引き継ぎ、サツマイモ、ジャガイモ、サトイモ、ゴボウ、ニンジンなど、自給自足と保存が利く根菜類を中心に栽培していました。
しかし、当時は戦時中で、眞尾さんも17歳の時に海軍主計兵としての徴兵。3カ月後に終戦を迎え、その後も海軍保安部隊として各基地の残務整理にあたるなど、激動の時期を経験。戦時中から戦後2〜3年は、野菜を作るにも物資がなく苦労しました。肥料はおろか、種も入手が困難な時代。現在の東京都大田区大森まで探しに行ったこともありました。また、野菜を思うように売ることができない状況の中、眞尾さんにとって農業とは、まさに今日を生き抜くためのものでした。
「農と家族」への想いを野菜に込めて
今農業を続けてきて良かったこととして、真っ先に挙がるのは家族のことです。戦後、激動の中で昭和23年に濱子さんと結婚。また、24年には長男・明さん、30年には次男・登さんが誕生し、眞尾さんの中で「今日を生きていくための農業」から「家族と共に生きていくための農業」へと、“想い”が変わっていきました。
取材中も何度もお客さんが来店され、熊沢さんとの会話を楽しみながら野菜を購入していました。お客さんが多いのも、毎日店頭で接客している成果なのかもしれません。
「妻(濱子さん)とは結婚してからずっと二人三脚だった。苦しいときもよく付いてきてくれた。本当に感謝しているよ。だから、ここからの人生は妻への恩返しなんだよ」と、濱子さんを見つめながら、優しい笑顔で話します。眞尾さんから皆様の食卓へ。野菜に込められた想いも届くことを心から願っています。
きずな.2015年 秋号_No.39掲載